懸命に昭和を生きた女性

2度養子に出されたY子さん

今年は暖冬で雪が少ないようですが、毎年1月下旬から2月上旬の立春あたりが、寒さのピーク。この時期は最低気温が0℃より低い冬日になることが多く、北日本や山間部では最高気温が0℃より低い真冬日になることも! 
火鉢やコタツで寒さをしのいでいた昔の人は、さぞ寒かったのではないかと思います。

今回は、2度も養子に出された大正15年生まれのY子さんのお話です。
Y子さんは島根県浜田市からバスで30分くらいかかる田舎で生まれたそうです。
(以下は、本人の発言を基に構成しました。表現として不適切とも取れる箇所はありますが、時代背景や本人の言葉を尊重し、変更なく記載します。)

うれしかったのはズック靴を買ってもらったこと!

私は7人兄弟の真ん中の“いらん子”だったので、4歳のとき農家だった叔父夫婦のところへ養子に出されました。
叔母は子育ての経験がなかったので「すて育ち」と言ってほったらかしにされ、あまり構ってもらえませんでした。
その後、叔母の弟を養子にして、そこへ私の姉が嫁にきたので、自分はまたいらん子になって、別の叔父にもらわれました。

小学校5年生の時でした。
もらわれた先も農家で、冬の間は紙漉きや炭焼きをしていましたが、私も手伝いました。石見和紙の産地だったので紙はよく売れました。
養父母は和紙の原料である楮(こうぞ)の皮むきなどをしていて、夕飯を食べるのは10時頃でした。
うれしかったのは、その叔父にズック靴を買ってもらったこと。
今でもはっきりと覚えています。

学校に履いていくと友だちが珍しそうに見ていました。
当時はズック靴を履いている子はほとんどなくて、下駄や藁草履だったのですよ。
20歳で婿養子を迎えて結婚し、女の子を4人産みました。

戦争中の昭和17年頃から着物と米を交換しようと、都会から人が大勢やってきました。でも帰りの汽車の中で襲われて、米をとられた人もあったそうです。
広島に原爆が落ちたときは田んぼの草取りをしていました。大きな音がして、太陽が真っ赤になったと思いましたが、後で原爆が落ちたのだと知りました。
しばらくして夫婦で大阪へ出てきましたが、最初は貧乏で内職でテープレコーダーの部品を作るなど、苦労しました。夫が銀行に就職できて、ようやく生活が安定しました。

今は幸せ!

最初に養子に出された先では、今で言う“ネグレクト”らしきことを経験したY子さん。
2度目にもらわれて行った先では仕事を手伝い、婿養子をもらって結婚。戦後すぐの子育てに苦労したり、大阪へ出てからも、なかなかご主人の仕事が決まらず貧しい暮らしをされたそうです。
それでも「いろいろあったけれど、今こうして暮らしていられて幸せ」だとおっしゃいます。
自分の境遇を当たり前に受け止め、一生懸命生きてこられたY子さんのような方が、昔の日本にはたくさんおられたのかも知れませんね。
 
説明ページ:「ネグレクト」とは

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昭和の思い出つむぎ隊 (ショウワノオモイデツムギタイ)

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